五-二十三 福永の『國語國事問題』 松岡の『日本言語學』
大正十五年二月󠄁、幅永恭助の『國語國字問題』が刊行された。本書の內容はいづれも雜誌その他に發表されたものであり、その主󠄁なものは既に紹介した。本書がどのやうな觀點から書かれてゐるかは、その自序に、
*我國では、めくらが四年で了へて居る國民敎育の過󠄁程󠄁をめあきが六ヶ年を費して居るといふ有樣である。大袈裟な物言ひが許されるならば、この國では子供が生れ落ちたならば、讀み書きを習󠄁はぬ內に早く目玉を潰して置く方が得策だといふことになる。
倂し、何としてもめくらではやり切れない。然らば眼を潰すことなしにめくらと同じ御利益にあづかるのにはどうしたらよいか。それが第一に此書の說く所󠄁である。
とあることから察することが出來よう。全󠄁く根據のない、低劣極まる暴言にはただ呆れるばかりである。小學生でもこんな暴言に騙されはしまい。言語道󠄁斷と言はざるを得ない。
同十五年七月󠄁、松岡靜雄は『日本言語學』を刊行し、その中で、ローマ字について
*要󠄁するに日本の語音󠄁を最よくあらはす文字は日本字(卽ちカナ)の外はないのである。ローマ宇で日本語を書けといふのは發音󠄁の根本を改めよといふと同じことで、ローマ字の發音󠄁を日本化󠄁――我々の祖先が漢字に施したやうに――せぬ限り、我々の語音󠄁を之でかき表はすことができるものではない。或は近󠄁い音󠄁を寫し得ることもあらうが、結局西洋人の日本語で、日本人の日本語にはなり得ない。鸚鵡よく人語を學べども鳥聲たるを免れぬといふことを我ローマ字論者は知らぬらしい。
と述󠄁べてゐる。