次󠄁頁前󠄁頁目次󠄁全󠄁體目次󠄁ホームページ

六-三十六 石黑の『日本語の問題』

 昭和十五年八月󠄁に刊行された石黑修の『日本語の問題』は、十二月󠄁に言語關係最初の文部省推薦圖書となつた。石黑は「國語の問題とその敎育」において、「生」の字は「百六十五通󠄁りに讀まれるさうである」「もつと煩はしいのはあて字」であるとか、「イギリスの子供は六年に三萬六千の單語を習󠄁ふが、日本の子供は一萬しか習󠄁はない」「イタリヤの子供は小學二年で新聞を樂に讀むさうである」などと、既に言舊された陳腐な議論を披露し、「漢字とローマ字の問題」において

*それが過󠄁去においていかに便利であり、有用であつたにしろ、われわれの衣食住󠄁、生活樣式にたへずよいものがとり入れられて行く時、その思想發表、意󠄁志傳達󠄁の機關である言語の器である文字だけ從來のままでよいといふことはあり得ない。

と述󠄁べ、文字の發達󠄁過󠄁程󠄁から見ても「漢字はその中でも最も原始的󠄁な形を保存した文字である」などと、これまた陳腐な議論を持出して得々としてゐるが、何故文字が從來のままであつてはならないのか、それについての說明󠄁は全󠄁くなされてゐない。また石黑は「國定日本文字」において、漢字は「なくても日用には差支ないが」漢字「だけでは用はたりない」といふことから、今日では漢字は假名文字の補助文字で、假名の方が本字であるなどと、「イタリヤの小學二年生ならいざ知らず」、日本の小學二年生なら決して言はぬやうな思慮のないことを言つてゐる。米はなくとも、鹽といもがあれば何とか生きて行けるが、米だけでは生きられぬから、鹽が主󠄁食で米が副食だと言ひたいのであらうか。


次󠄁頁前󠄁頁目次󠄁全󠄁體目次󠄁ホームページ