「語源から古典へ 古典への誘ひ」
土屋道雄著 笠原書房
よくぞ出たと思はせる名著です。 簡單にいへば、「語源重視の語彙集」といふべきでせうか。三百ページ弱の、ふつうの單行本の體裁なのですが、ほぼ二千語の單語を收めてゐます。そして、ここがポイントですが、重要な單語については、その語源を解説してゐるのです。私は學生時代に「新言海」の語源説明に惹き付けられ、讀み耽つた記憶がありますが、老境に達して、若き日の感動をこんなにも甦らせてくれる書に出遭はうとは思ひませんでした。
何よりも素リらしいのは、かな文字一つ一つに、それぞれ言語の要素となる意味が含まれてゐることを明らかにしてくれてゐることです。
漢字を見れば分かることではありますが、たとへば、「ね」には「子・音・寢・根・値・嶺」などの意味があります。それが他の音(假名)と合して、さまざまな單語を作つて行きます。「葱(ねぎ)」はもともとは「き」だつたのですが、地中の白い部分を食することから、「根」がついて、「ねき」になり、濁つて「ねぎ」と呼ばれるやうになつたとのこと。
「み」は「三・巳・水・身・實・海・靈・御・見・深」であり、「水」の意味の「み」が動詞化して「みつ(滿)」が生まれました。水は器に隙間なく一杯になるからです。さらに、「み(水)」は「みつ(滿)」から轉じて「みづ」といふ形に變りました。木の「みき(幹)」は「身木」だといふことです。木の本體といふわけでせうか。「みさき(岬)」は「海」の「み」に「先」がついたもの。
我々は高校生の頃、「かんなづき(神無月)」は「全國の神樣が出雲に集まり、他の場所にはゐなくなるから」さういふ名がついたのだと習ひましたが、實はさうではない、と本書はヘへてくれます。一年の收穫を神に供へ感謝する月なので、「神の月」が訛つて「かんなづき」になつたとのこと。また、「師走」は「としはつ(年果)」で、師が走るわけではないのです。考へてみれば、「師」を「し」と讀むのは字音(音讀)ですから、大和言葉の語源であるはずはありません。「むつき(睦月)」から始まつて、他の月の名も、丁寧に語源を説いてくれてゐます。
鳥の名を見てみると、「鷹」は單純に、高い所を飛ぶから「高」であり、「燕」は元來は「つばくらめ」。翼が黒い所から來てをり、「め」は「小さいもの・愛らしいもの」の意だといふのです。
日本國は「言靈の幸ふ國」と言はれますが、本當に、一つ一つの音に、靈魂が籠つてゐるやうに思はれて來ます。「日本語は世界で一番美しい言語だ」といふと、反撥する人がゐます。「國語は自然に憶えるのだから、學校でヘへる必要はない。どうせ將來は英語に統一されるのだ」などといふ意見もあります。もし、本當に「將來は英語に統一される」ことが避けられないのだとしても、少しでも、その日の到來を遲らせるやうに、國語への愛情を育てる必要があるのではないでせうか。
土屋氏は、本書を「歴史的假名遣ひ」で書いてゐます。漢字が新漢字を使つてゐるのは些か殘念ではありますが、若い人が(若い人に限りませんが)正漢字を讀むことが出來ないといふ現實がある以上は仕方のないことです。
語源を研究するためには、歴史的假名遣を使はなければならないことは明らかです。
「ゑ」には「にこにこする」といふ意味があります。だから「笑む」は「ゑむ」なのです。女性の名で、「咲」を「ゑみ」と讀む例がありますが、「咲」の字は、中國語では、「ほほゑむ」の意味だからです。「醉」の假名遣ひは「ゑふ」ですが、本書は見事にその理由を解明してくれます。人間は醉ふとにこにこするから「ゑ」が使はれるのです。これを、「えふ」や、まして「よう」と書いていいものでせうか。前述の「水」も、「みず」ではなく「みづ」だといふことはよくお解りになつたことでせう。
國語が輕視される、こんな時代だからこそ、國語の美しさを分からせ、日本に生まれてよかつたと感動を味ははせてくれる書が必要なのではないでせうか。
高田 友