「ほんとうの敬語」
萩野貞樹著
萩野貞樹著「ほんとうの敬語」を讀みました。
誰もが關心を持ちながら、一向に理解できない敬語理論。本書はこれを明快に解き明かしてくれます。現代の敬語の混亂は、國語審議會の責任が大きいのですが、その中でも特に、昭和二十七年に文部大臣に建議した「これからの敬語」(金田一京助氏の起草?)が深刻な問題を孕んでゐたと著者は言ひます。
これまでの敬語は主として上下關係に立って發達してきたが、これからの敬語は、各人の基本的人格を尊重する相互尊敬の上に立たなければならない。
なるほど、かういふ平等イデオロギーが背景にあつたのかと首肯されます。著者は、このやうな平等イデオロギーに反對し、敬語をかう定義します。(敬語とは)人間のなんらかの意味の上下關係の認識を表現する語彙の體系である。
政治とも道徳とも平等とも無關係な、何といふ分かりやすい定義でせう。著者は、敬語を「尊敬語」「謙譲語」「丁寧語」の三つに分類します。そのこと自體は世に流布する敬語論と違ひありません。
然るに、前述の國語審議會(平成十三年に芽出度く潰れました)の後身ともいふべき「文化審議會國語分化會」は、平成十九年(二〇〇七)に、「敬語の指針」の答申を提出し、敬語には五つの種類があると主張しました。謙讓語を「謙讓語T」と「謙譲語U(丁重語)」に分け、丁寧語を「丁寧語」と「美化語」に分けるといふものです。
やたらに細かく分類する人は、簡潔な論理でまとめることができない人です。この五つの分類などはまさにそのクチですが、著者はこれを斥けます。そして、敬語理論はすべて、「上下關係」で説明できるとしてゐます。
第一の「尊敬語」とは「話し手と話題の人物の上下關係だけに從ふ」ものです。「社長が來週うちにおいでになるよ」といふときは、「おいでになる」といふ尊敬語は、社長の方が話し手(私)よりも目上であることを示してゐます。
著者は、他の學者や書物を小気味よく叩いてゐます。小學校六年用のさるヘ科書は、尊敬語を「相手や、相手に關係している事がらを敬って言い表す言葉づかいです」と言つてゐますが、著者はこれを一刀兩斷に切つて棄てます。
「先生がいらつしやつたとき、お前はどこにゐたのだ」といふとき、尊敬語は「いらつしやる」ですが、どうしてこれが、相手(聽き手)に對する敬意を表してゐるはずがありませう。
「謙讓語」は、「話題中に現れた人物同士の間の上下關係」だけを問題にしてゐるのです。世間の敬語の本には、「謙讓語」は「話し手側は動作を低めて言うことで相手への敬意を表すもの」と書いてありますが、著者は反論します。
校長先生が生徒に向つて、「そのノート、擔任の先生からいただいたの?」と言ふときには、「いただく」が謙讓語ですが、決して校長先生が自分の動作を低めてゐるわけではありません。この「いただく」は、擔任の先生が、生徒よりも目上であることだけを示してゐるのです。
三つめの「丁寧語」は、「聽き手に對してのみ敬意を表現するもの」です。
「あの野郎がやりやがつたんです」といふのはののしりの表現ですが、「です」が使はれてゐるのは、聴き手が自分(話し手)よりも目上であることを示してゐます。生徒が先生に、友達の惡事を訴へてゐる場面を想像して下さい。
このやうな理論を著者は見事な圖解で説明してゐます。他の學者の本にも、似たやうな圖解が載つてゐますが、この著者の圖解ほど簡潔明快なものは見たことがありません。著者の理論そのものが簡潔明快だからです。
この圖解に附いてゐる解説の中で一番面白かつたのは、「おほす(仰す)」です。「広辞苑」では、「おほす」を「おっしゃる」の意味の尊敬語だとしてゐますが、さうでない、と著者は言ひます。なんと、「謙讓語」だといふのです。「くださる」と同樣に、上位者が下位者に物を言ふときに使ふからです。目から鱗が落ちるやうな素リらしい分析です。だからこそ、尊敬語として使ふときは、「おほせらる」と尊敬の助動詞を附けなければならないのです。
「れる・られる」を尊敬語として使ふな、といふ著者の主張も注目を引きます。自發なのか、可能なのか、受身なのか分からなくなるからです。そもそも、尊敬語として「れる・られる」が頻繁に用ゐられるやうになつたのは、前述の國語審議會「これからの敬語」の中で、この「れる・られる」を尊敬の敬語の中心に位置づけたことから始まつたのだといふことです。
著者の辭書批判も痛快です。
ある辭書は「金魚に餌をあげる」を正しい言ひ方だとしてゐます。しかし、「あげる」は丁寧語ではなく、謙讓語なのですから、上位者にしか使へません。これを「上品な言葉遣いで自分の品位を保つためのもの」などと説明する辭書があります。著者は「辭書の劣化」といふ辛辣極まりない言葉で批判します。
一番我が意を得たりといふ思ひにさせられたのは、次の一節です。
言葉といふものはできるだけ變形しないやうに「保守」されなければ役に立たないものとなるからです。從つて、言葉の問題を扱ふ人は必ず「保守的」でなければなりません。
言葉といふものは、一旦變つてしまつたら、なかなか元には戻りません。
この美しい日本語といふ言語を與へられた我々には、國語を守るといふ義務が課せられてゐるのではないでせうか。
それに關聯して、著者は、家庭内での言葉遣ひの重要性を説きます。母親を「おめえ」と呼ぶ家庭では、健康な母子關係が破壞されてゐますが、母子關係が破壞されたから「おめえ」と呼ぶやうになつたといふよりは、「おめえ」と呼んだからこそ反抗心が燃え上つたといふのです。
なるほど、言語が人間の心にどんな重要な作用を及ぼすかを考へさせるヒントでもありました。