「これでいいのか、にっぽんのうた」
藍川由美著 文春新書
聲樂家・藍川由美氏は、「同調壓力」に屈しないといふ點では、極めて男性的な方です。五年ほど前に講演を拜聴してから、數少ない「論理的な思考」の人だと感嘆してゐます。そして、今回、著書「これでいいのか、にっぽんのうた」に接することができ、思つてゐたとほりの人だと感銘を深くしました。
日本の音樂家は、聲樂をする人でも、歌の歌詞には餘り關心がありません。曲が本體で、歌詞は付隨的なものだと思つてゐるのです。これに對して藍川氏は、日本人の心の中で區別されてゐる微妙な發音を復興させたいと主張します。そして、日本語で歌ふ場合は、ヨーロッパ語とは違ふ、獨特な歌ひ方があつて然るべきだと述べてゐます。
譬へば「ん」の發音です。特に語尾の「ん」は、文語の「む」か、さうでなければ否定語の「ぬ」であるのがふつうですが、氏は、前者の場合はm、後者の場合はnの音でなければいけないという意見です。ことに、終戰直後の國語改革によつて、書いてあるとほりのはつきりした發音をしなければならないといふ風潮が廣まり、中間的な微妙な音がなくなつてしまつたことを憂へてゐます。「馬」は「うま」でなくて「むま」「んま」なのです。
氏は音樂家でありながら、日本語の造詣が深く、歴史的假名遣ひの論理をよく理解してゐます。そして、歴史的假名遣を發音にも應用せよといふのです。文部省唱歌「故郷」の中の「思ひ出づる」を「オモイイズル」と歌ふと、「二度目の『い』が平べったくなり、響きもきつくなりがち」ですが、「『オモヒイヅル』と發音すれば『い』が樂に歌えるようになる」と言ひます。もちろん、「ず」と「づ」も、意識して異なる發音にするのです。
春の小川」の歌詞は、もともと「さらさら流る」「ささやく如く」だつたのですが、昭和十七年に、文部省によつて、「さらさら行くよ」「ささやきながら」に變へられてしまひました。「文語は小學生には分からないから」といふ理由によるものでした。こんな荒唐無稽な改惡は、てつきり戰後のドサクサに便乘したものだと思はれるのに、それが戰時中のことだつたといふのに驚かされます。
この類の恣意的な歌詞の改變を、氏は多數の例を擧げて紹介し、批判してゐます。
「村の鍛冶屋」は、大正元年の「尋常小學唱歌(四)」では「あるじは名高きいつこく老爺(おやぢ)」だつたのが、昭和十七年版では「あるじは名高いいつこく者よ」に變へられ、さらに、昭和二十二年版では「あるじは名高いはたらき者よ」と改作されてしまひました。
藍川氏は「口語体を用いるという教育方針が出されたからといって----(このような改變に)---どんな意味があるというのか、まったく理解できない」と嘆いてゐます。
冒頭で、氏は「同調壓力」に屈しない人だ、と書きました。「文語は口語に直すべきだ」「難しい言葉を使つてはいけない」「原文の味はひを尊重するよりも、子供の理解を優先すべきだ」などという俗論に立ち向つて、文化を防衞しようといふ氣概が感じられるのです。
さらに、藍川氏は、「『舞台語発音』確立の可能性」を示唆してゐます。日常会話の發音は多樣であつても、歌の歌詞の音は、統一的な讀み方があつて然るべきです。「歌う(歌ふ)」の發音は、文語の場合「うたう」なのか「うとう」なのか、混亂があつてはいけないといふのです。なるほど、これが論理といふものだ、と納得させられました。
音樂や國語に關心のある人は、是非讀まなければなりますまい。また若い人で、論理的思考能力を磨きたい人にとつては、哲學書の趣きさへ感じられる書です。
進歩的な音樂論、言語論、教育論をお持ちの方は、本書をお讀みになると、キリストの聲を聞いたパウロのやうな人生觀の轉換を經驗するかも知れません。
高田 友